知美は手にした保温ポットを抱えるようにして、田中グループの本社ビルに入った。
この一盅の薬膳スープのために、彼女は南米の地下オークションに顔の利くルートを使って、唯一出品された「静血草」を押さえ、さらに土鍋の火加減を六時間も見守り続けたのだ。
夫である鴻太の命綱は、重度の偏頭痛を和らげるこのスープに懸かっていた。
ドアを押し開けた瞬間、目の前に飛び込んできた光景は――鴻太が小泉清佳という女性に、ある封筒を手渡しているところだった。
小泉清佳。田中鴻太が心の底で忘れられずにいた、いわゆる“初恋”である。
なぜ、彼女がここに?
「嘘……信じられない! 聖ミサ年次総会の招待状じゃない!」 清佳は甘えるような笑みを浮かべて封筒を受け取ると、勝ち誇ったような視線を知美へと向けた。
「来ていたのか」物音でようやく存在に気づいたのか、鴻太が冷淡な声を出す。その視線は一瞬だけ知美の手にする保温ポットを捉えたが、すぐに興味を失ったかのように逸らされた。「そこに置いておけ」
その素っ気ない態度に、清佳はさらに得意げな表情を浮かべる。彼女はわざとらしく招待状を何度も裏返しながら、うっとりと声を上げた。
「ありがとう、鴻太さん! これって、世界のトップクラスの医学者しか参加を許されない会議ですよね……? 私がもうすぐ博士号を取るからって、こんな素敵なサプライズを用意してくれるなんて……本当に嬉しい!」
サプライズ?
入り口で立ち尽くす知美の胸に、やりきれない思いが渦巻いた。あまりにも、馬鹿げている。
あの招待状は、聖ミサ側が知美と、そして彼女の母親を医学講演に招くために特別に送ってきたものだ。
鴻太には、ただの「受け取り代行」を頼んだに過ぎない。それが今や、彼が他の女の機嫌を取るための道具に成り下がっている。
知美の母は、かつて致死性の希少遺伝病の治療法を研究するためにその生涯を捧げた。しかし、研究が実を結ぼうとした直前、何者かの陰謀によって失踪――世間からは「学術詐称」という身に覚えのない汚名を着せられた。
この五年間、知美は田中家で「料理しか能のない主婦」を演じ続けてきた。だがその裏では、屋敷の地下にある粗末な実験室に籠もり、目を血走らせながら幾度も薬剤を調整し、膨大なデータを検証し続けていたのだ。すべては、母の遺した研究を完成させるために。
そして先週、その研究成果はようやく国際医療連盟による臨床二重盲検試験をパスした。
この招待状こそが、母の潔白を証明し、同じ病に苦しむ患者たちに希望の光をもたらす、最初で最後のチャンスなのだ。
知美は一歩、また一歩と歩み寄り、清佳が握りしめている封筒を射抜くような視線で見据えた。「それを……返しなさい」
清佳の手がピクリと止まる。彼女はすぐさま、か弱い被害者を演じるように鴻太の背後へと身を寄せた。「……知美さん、急にどうしたんですか? これは鴻太さんが私に贈ってくれたプレゼントなんですよ?」
鴻太はわずかに顔を曇らせ、突き放すような冷たい声を投げかけた。「知美、それをお前が持っていても無駄になるだけだ。
すでに清佳に渡した。今さら返せなどと言うな」
「無用の長物……?」 あまりの言い草に、怒りを通り越して乾いた笑いが漏れた。知美は震える指先を隠すように拳を握りしめ、夫を真っ向から見据える。「鴻太、私の持ち物の価値を、いつからあなたが決める権利を持ったの?」
その時、傍らに控えていた鴻太の秘書、鈴木新が鼻で笑った。
「知美さん、自分の立場をわきまえたらどうですか? あなたの体の一部から、今着ている服に至るまで、すべて田中家の金で賄われている……いわば田中家の所有物だ。 医学博士である小泉さんに渡してこそ、その招待状は初めて価値を持つんですよ」
新はさらに追い打ちをかけるように、蔑みの視線を送る。
「本一冊まともに読まない専業主婦に、その招待状の重みが理解できるはずもない。宝の持ち腐れとは、まさにこのことだ」
鴻太はわずかに眉をひそめた。新の言葉が少し露骨すぎると感じたようだが、それを否定しようとはしなかった。
彼の記憶にある知美は、毎日キッチンに閉じこもり、彼の機嫌を取ることだけに腐心する女に過ぎない。そんな彼女が医学に通じているはずがない。
(……また、こうして気を引こうとしているのか)
どうせどこかで手に入れた招待状を使って、自分に注目してほしいがために騒いでいるのだろう。鴻太はそう結論づけると、教え諭すように口調を和らげた。
「清佳はもうすぐ博士号を取得する。これからの彼女が医学界で確固たる地盤を築くためには、国際的な専門家と接するこの機会が不可欠なんだ。
お前が俺の気を引きたいという気持ちは分かった。だが、こんな子供じみた真似はもういい」
(自分を証明するために、気を引こうとしている……?)
知美の垂らした指が、無意識にギュッと縮こまった。
五年に及ぶ結婚生活。彼の目に映っていた自分は、そんな浅はかな手段でしか関心を引けない「空っぽな付属品」に過ぎなかったのだ。
知美は手に持っていた保温ポットを、デスクの上にドンと置いた。激しい音を立てて蓋が床に落ち、鈍い音を響かせる。
「招待状には、はっきりと私の名前が記されています。私の所有物を勝手に他人に贈って恩を売るなんて……田中社長は、随分と気前がいいのね」
知美の冷徹な声に、鴻太が言葉を詰まらせる。知美はそのまま、清佳を射抜くように睨みつけた。「医学博士の天才である小泉さんなら、招待状くらい自力で手に入れるのは容易いことでしょう?
なぜ、わざわざ一介の主婦の物を奪う必要があるの? まさか、医学博士の肩書きを持ちながら、主婦以下の能力しかないと認めるわけじゃないわよね?」
「なんてことを言うんですか……っ!」 清佳の顔から一気に血の気が引き、その瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていく。「鴻太さん、ごめんなさい……私、本当に知美さんのものだなんて知らなくて……。
こんなことになるなら、最初から受け取ったりしませんでした……」
清佳は声を震わせながら、封筒を知美の方へと差し出した。「知美さん、ごめんなさい。これ、お返しします」
知美がそれを受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間――。
清佳はわざとらしく、指先の力を抜いた。
――ボチャン。
重力に従って落ちた封筒は、蓋の開いたままの保温ポットへと吸い込まれ、薬膳スープの中で沈んだ。
上質な暗赤色の封筒には、一瞬にしてどす黒い油染みが広がっていく。見るも無残なその汚れは、知美の心に泥を塗るかのようだった。
「あっ……!」 清佳はわざとらしく口元を押さえ、悲鳴のような声を上げた。「ごめんなさい、手が滑っちゃって……汚しちゃった……。どうしよう、知美さん……っ」
油にまみれ、ボロボロになった封筒を、知美はただ呆然と見つめる。 脳裏に、今は亡き母の穏やかな声が蘇った。『私の知美が、お母さんの夢を継いで、世界で一番立派なお医者様になりますように』
それは、母が命をかけて遺した願い。
知美は糸が切れた人形のように、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。
「……紙切れ一枚、まともに受け取れないのか」 頭上から降ってきたのは、鴻太の冷ややかな声だった。彼は台無しになった招待状を一瞥し、不機嫌そうに眉をひそめる。
「もういい。所詮はただの紙だ。汚れたものは仕方がないだろう」
「…………」 知美は何も言わず、震える指先でティッシュを取り出すと、封筒に付着した油を一点一点、丁寧に拭い始めた。
だが、深く染み込んだ汚れが消えることはない。拭けば拭くほど、母の誇りが汚されていくような気がした。 もはや、元には戻らない。
彼女はゆっくりと立ち上がった。掌の中でぐしゃりと握りつぶされた紙の感触と、食い込む爪の痛みが、崩れそうな理性を辛うじて繋ぎ止めている。
「……分かりました。招待状の件は、もうこれ以上は問いません」 知美は感情の消えた瞳で、真っ直ぐに鴻太を見つめた。「明日の午後三時、父が海外から帰港します。 一緒に迎えに行くと……そう約束しましたよね」 鴻太を、そしてこの五年間の生活を、まだ信じたいわけではない。ただ、けじめが必要だったのだ。「明日の三時、港です。待っていますから」
それが、彼女がこの冷え切った婚姻関係に提示した、正真正銘『最後のチャンス』だった。