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裏切られた令嬢は、冷酷総帥の檻から逃げられない

裏切られた令嬢は、冷酷総帥の檻から逃げられない

5.0

薬を盛られたあの夜、私はすべてを失った。 婚約者も、家族の信頼も、亡き母が遺してくれた未来さえも。 異母妹の莉央に嵌められ、見知らぬ男と一夜を共にした私を、家族は被害者ではなく「恥知らず」と罵った。 家に戻れば、婚約者の翔はすでに莉央のものになっていた。 しかも彼女のお腹には、彼の子がいるという。 母が私のために遺してくれた婚約を奪われたうえ、家族は会社の危機を救うため、私にさらなる地獄を用意していた。 相手は、鷹司財閥の当主。 六十近い独身の老人だと噂される男。 そして彼らは、心臓病の弟の治療費を盾に、私にその男のもとへ嫁げと命じた。 逃げ場など、どこにもなかった。 弟を守るため、私は心を殺して婚前契約書にサインした。 もう愛などいらない。 もう誰にも期待しない。 そう決めたはずだった。 けれど結婚式の夜、誰もいない別邸で私を待っていた「夫」を見た瞬間、私は息を呑んだ。 「どうして……あなたがここにいるの?」 そこに立っていたのは、噂の老人ではなかった。 あの夜、私に最悪の記憶を刻みつけた男。 そして、鷹司財閥の若き後継者――鷹司暁だった。 「逃げられると思うな。お前はもう、俺の妻だ」 裏切られた令嬢の逃げ場のない結婚が、ここから始まる。

目次

裏切られた令嬢は、冷酷総帥の檻から逃げられない 第1章

成瀬乃優は、燃えるような熱に浮かされながら、帝都ホテル最上階の廊下をよろめいていた。

喉の奥が渇き、視界は水に沈んだように歪んでいる。壁に手をつかなければ、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。耳の奥には、異母妹である莉央の甘ったるい声が、毒のようにこびりついて離れない。

大丈夫ですか、お姉様?お部屋をご用意しましたから。最上階のロイヤルスイートですわ。

やられた。

そう理解した時には、もう身体の芯から奇妙な熱が這い上がっていた。指先は冷たいのに、肌の内側だけが焼けるように熱い。乃優は最後の理性にすがりつきながら、莉央に囁かれた部屋番号だけを頼りに、ふらつく足を前へ進めた。

少し前。

「お姉様、何を一人でそんなに浮かない顔をされているのですか?」

甲高い甘ったるい声が鼓膜を揺らす。成瀬乃優はうんざりしながら顔を上げた。目の前には異母妹の莉央が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて立っていた。その手には、泡の立ち上るシャンパングラスが二つ。

「別に少し疲れただけ」

乃優は素っ気なく答え、視線を逸らした。きらびやかなシャンデリア。偽りの賞賛を交わし合う人々。ここは帝都ホテルで開かれた、父の会社の取引先を招いたパーティーだ。乃優にとってそれは、息の詰まる虚偽の塊でしかなかった。指先が冷えていくのを感じる。早くこの場から立ち去りたい。

「まあ、そんなことおっしゃらずに。今日はお姉様のご婚約のお祝いでもあるのですから」

莉央はそう言って、有無を言わさぬ仕草で片方のグラスを乃優に押し付けた。その瞳の奥に一瞬だけ底意地の悪い光が宿るのを、乃優は見逃さなかった。胃のあたりが、不快にきゅっと縮こまる。

「ありがとう。でも、もう十分いただいたから」

公の場で波風を立てたくない。乃優はグラスを受け取り、唇を湿らす程度に口をつけた。だが、莉央はそれで満足しなかった。

「あら、遠慮なさらないで。さあ、乾杯しましょう?」

しつこく絡んでくる莉央。その腕が「偶然」、乃優の腕にぶつかった。ぐらりとグラスが傾ぎ、黄金色の液体が乃優の喉の奥へと流れ込んでいく。ごくりと、意図せず嚥下してしまった。

「ご、ごめんなさい、お姉様!」

わざとらしい謝罪の言葉を背中で聞きながら、乃優はその場を離れた。しかし、数分も経たないうちに、身体の内部から奇妙な熱が湧き上がってくるのを感じた。頭がぼうっとし、視界がぐにゃりと歪む。

だから乃優は、逃げた。莉央に支えられるふりをされる前に、捕まる前に、誰かの悪意に利用される前に。

しかし、背後から莉央が近づいてきて、ぐらつく乃優の身体を支えるふりをした。

「大丈夫ですか、お姉様?お部屋をご用意しましたから。最上階のロイヤルスイートですわ」

耳元で囁かれた部屋番号。それは悪魔の呪文のように、乃優の混乱した脳に刻みつけられた。最後の力を振り絞り、乃優は莉央の腕を振り払う。そして、ふらつく足でエレベーターホールへと向かった。意識が急速に遠のいていく。押すべき階数のボタンを、ただ記憶だけを頼りに押した。

同じ頃、帝都ホテル内の別会場に出席していた鷹司財閥の後継者、鷹司暁は、急な高熱に意識を朦朧とさせていた。重要なパーティーだったが、体調の悪化には勝てず、側近に後を任せて自室であるロイヤルスイートに戻ったところだった。解熱剤を水で流し込み、ベッドに倒れ込む。鍵をかける気力さえ、今の彼にはなかった。深い眠りが、すぐに彼を捕らえた。

エレベーターを降りた乃優は、壁に手をつきながら囁かれた番号の部屋を探した。扉に手をかけると、カチャリと軽い音を立てて開く。鍵はかかっていなかった。安堵と共に、彼女は部屋の中へとなだれ込んだ。

部屋は暗かった。カーテンの隙間から差し込む月明かりだけが、ぼんやりと室内を照らしている。乃優は迷わず、その光が指し示す先にある大きなベッドへと向かった。燃えるように熱い身体が、ただただ冷たいシーツの感触を求めていた。

ばさりとベッドに倒れ込む。

しかし、そこにあったのは冷たいシーツではなかった。硬質で、それでいて自分以上に熱い人間の身体だった。

「誰だ?」

眠りを妨げられた男が、低い声で唸った。暗闇の中で、鋭い黒い瞳がかっと見開かれる。競争相手が送り込んできた女か。暁は反射的に、自分の上に倒れ込んできたか細い腕を掴んだ。

薬に理性を奪われた乃優には、もはや正常な思考は不可能だった。ただ本能が、目の前にある灼熱の身体に清涼な慰めを求めさせる。掴まれた腕を意に介さず、彼女は燃えるような肌を求め、彼の身体に絡みついた。

その無防備な接触は、高熱で同じく判断力を失っていた暁の、最後の理性の糸を焼き切った。

混乱の一夜が明けた。

乃優を現実に引き戻したのは、頭を割るような激しい痛みと、身体の至る所に走る鈍い痛みだった。ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井。そして、隣で静かな寝息を立てている男の、逞しい肩のライン。ベッドの下には、昨夜のものと思われる男女の衣服が、無惨に散らばっていた。

心臓が凍りついた。何が起きたのか理解するのに、時間はかからなかった。

屈辱と怒りで、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。だが、腹立たしいことに、隣の男はひどく整った顔をしていた。長い睫毛。通った鼻筋。鍛えられた肩と胸板。見た目だけなら、認めたくないほど完璧だった。

だからこそ、余計に腹が立った。

顔と身体は十点満点。だが、昨夜の記憶の断片を思い出すだけで、乃優のこめかみがぴくりと引きつった。熱にうなされていたせいか、それとも本当にそういう男なのか、とにかく最悪だった。余裕も、繊細さも、気遣いもない。目覚めた瞬間から全身が軋むように痛むのだから、一万円を置いてやるだけでも十分すぎるほど寛大だ。

乃優は下唇を強く噛みしめ、喉までこみ上げてくる嗚咽を必死に飲み込んだ。涙を見せるものか。

彼女は音を立てないよう、慎重にベッドから抜け出した。軋む身体に鞭打ち、散らばった自分の服を拾い集めて身につける。

その時、ベッドサイドのテーブルに置かれた男物の財布と、高級そうな腕時計が目に入った。

ふつふつと、黒い報復の念が湧き上がる。

乃優は財布を掴むと、中から一万円札を一枚だけ乱暴に引き抜いた。そして、それを腕時計の隣に叩きつけるように置いた。

近くにあったホテルのメモ帳とペンを手に取る。そして、震える指で殴りつけるように、一行のメッセージを書きなぐった。

「顔と身体:10/10。ベッド:0/10。全身が痛い。サービス内容を考えれば、この一万円は破格の報酬よ。お釣りは要らないから、まず練習して出直して」

全てを終えると、乃優は一度も振り返ることなく、その部屋から逃げ出した。

それからしばらくして、鷹司暁は眉間の不快な痛みと共に目を覚ました。そして、サイドテーブルに置かれた異様な光景に気づく。無造作に置かれた一万円札と、一枚のメモ。

彼はメモを手に取った。そこに書かれた挑発的な文字を読んだ瞬間、彼の深い黒瞳が絶対零度の光を宿した。口の端が、ゆっくりと危険な弧を描く。

くしゃりとメモを握り潰し、彼は誰もいない空間に向かって命じた。

「田中、女を一人探せ」

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