初めての個展が開かれる夜。けれど、私のアルファであり、伴侶であるはずの魁(かい)の姿はどこにもなかった。会場にはシャンパンと賞賛の言葉が満ちているというのに、どんな賛辞も「アルファの伴侶」として向けられるもので、まるで平手打ちを食らっているかのようだった。アーティストとしてではなく。
その時、ニュースフィードに映る彼を見てしまった。別の女性、アルファの女をカメラのフラッシュから庇うようにして立っている。会場の囁き声が、それが事実だと裏付けていた。彼らの群れが合併し、新たな契りで固く結ばれるのだと。これはただの遅刻じゃない。私たちの絆を、公衆の面前で処刑する行為だ。
彼の声が、冷たく突き放すように私の心に割り込んできた。「伽耶(かや)には俺が必要だ。お前はオメガなんだから、この場を上手く収めておけ」。謝罪の一言もなく、ただの命令。その瞬間、四年間ずっと握りしめていた希望の最後の糸が、ぷつりと切れた。
彼は私を忘れただけではなかった。私の存在を、計画的に消し去ろうとしていたのだ。私の秘密の幻視から生まれた、数千億円規模のアプリの功績さえも自分のものにし、私の芸術を単なる「趣味」だと切り捨てて。
でも、その夜、私の内にいた従順でおとなしい部分は死んだ。私は裏のオフィスへ向かい、弁護士にメッセージを送った。
離縁の儀式の書類を作成してほしい、と。私の「価値のない」アートに関する知的財産権の譲渡契約書に偽装して。彼は細かい文字など決して読まないだろう。私の魂を砕いたのと同じ傲慢さで、彼は自らの魂を売り渡す署名をするのだ。
第1章
アリサガワ・アヤナ:
画廊の空気は、ねっとりと重かった。高価なシャンパンの香り、人々の香水、そしてカンバスの上で乾いていく油絵の具のかすかで清潔な匂い。でも、私の魂が渇望するたった一つの香りが、ここにはなかった。
松と、嵐の前の電気を帯びた匂い。
魁。
私のアルファ。私の、伴侶。
彼はここにいるはずだった。今夜は私のための夜。初めての個展。彼が私たちの家と呼ぶ、殺風景で孤独なペントハウスで、何年もカンバスに身をかがめて過ごした日々の集大成なのだ。
胸騒ぎがして、身に着けたシンプルなシルクのドレスを撫で下ろす。深い真夜中の青。上品だけど、まるで借り物の衣装のよう。この生活のすべてが、借り物のように感じられた。
近くで誰かがグラスを鳴らした。「アルファの伴侶に乾杯!なんて才能豊かなオメガさんなんだ」
褒め言葉のはずなのに、その言葉は平手打ちのように私の頬を打った。アルファの伴侶。アーティスト、有栖川綾菜(アリサガワ・アヤナ)としてではなく。ただの彼の付属品。
精神感応リンクを通じて、会場にいる黒石一家の狼たちの思考が流れ込んでくる。同情的なものもあれば、残酷な満足感に満ちたものもあった。『可哀想に、すっぽかされたのね』『あんなアルファには、いつも大人しすぎたのよ』
月の女神から与えられたこのリンクは、本来なら群れを一つにし、家族を築くための贈り物のはず。でも今夜は、囁き声の檻のように感じられた。その一つ一つが、私の心を鋭く抉る。
私の最大の作品、アイデアの誕生を表現した銀と影の渦巻く絵を賞賛する人間のコレクターに、私は無理に微笑んでみせた。彼の、アイデアの。
視線が、画廊の端にある大きなスクリーンに吸い寄せられた。そこには本来、私のデジタルスケッチがループで映し出されるはずだった。なのに、今はニュースの生中継が流れている。
そして、そこに彼がいた。
一条魁。私の、魁が。
都庁の階段に立ち、完璧に仕立てられたスーツに包まれた広い肩。その強靭な肉体は、無数のカメラのフラッシュから、別の女性を庇うように傾けられていた。
赤月一家のアルファ女、鬼頭伽耶。
画面越しでさえ、彼女の香りは鋭く攻撃的だった。野生の生姜と砂漠の太陽。彼女は捕食者であり、対等な存在。ライラックと雨の香りがする、物静かなオメガの私とは違う。
画廊の囁き声が大きくなる。もはやリンクの中だけには収まらない。
「……黒石一家と赤月一家の合併……」
「……同盟は、契りによって固く結ばれる……」
「……真のパワーカップルだ。アルファとアルファ女……」
世界がぐらりと傾いた。胃の中のシャンパンが酸に変わる。これはただの遅刻じゃない。公開処刑だ。私の。
その時、彼の声が雑音を切り裂き、私の頭の中に直接響いた。私たちのプライベートなリンクを通した、冷たく、突き放すような命令。
『伽耶には俺が必要だ。お前はオメガなんだから、その程度の場は上手く収めておけ。おめでとう』
言葉は短く、苛立たしげだった。謝罪の気配も、温かさのかけらもない。アルファが部下に下す、ただの命令。
それだった。四年間、私がずっと握りしめていた希望の最後の糸が、ぷつりと切れた。月の女神が織りなした私たちの神聖な絆が、まるで凍てついた蔓のように、氷のように冷たく、もろく感じられた。今にも砕け散りそうだ。
「綾菜さん、大丈夫ですか?」
ふいに、しっかりとした気配が隣に立った。画廊のオーナー、倉田蓮さん。彼のベータとしての香り、温かい土と古い本の匂いが、詮索するような視線と思考から私を守る、心地よい盾となった。
彼の声は低く、私にしか聞こえない。だが彼の怒りは、リンクの中で静かな絶叫となっていた。『あの馬鹿なアルファめ!妹の心を弄んだ奴とそっくりだ。今日この日を、息絶えるまで後悔させてやる!』
私は震える息を吸い込み、壁の絵に目をやった。それは「アイテール」プロジェクトの初期スケッチの一つ。一条テックに数千億円をもたらした、あの革命的なアプリの。インスピレーションは幻視として私に降りてきた。隠された血筋の賜物。イメージとコードの奔流を、私は夢中でカンバスに描きつけたのだ。
魁はそれを私の「趣味」と呼んだ。彼はそれが何であるか、絵の具の下で脈打つ魔法を正確に知っていた。だがそれを認めれば、私の力を認めることになる。だから彼は、それを、そして私を、見下した。
彼は私を忘れただけではなかった。計画的に私を消し去ったのだ。私の魂の最も神聖な部分、白狼の血統が持つ魔法を奪い、自分の名前を刻印した。
小さく、静かでいることで生き延びることを覚えた、私の中の臆病な部分が、ついに死んだ。その代わりに、ガラスの破片のように鋭く、冷たく硬い決意が、カチリと音を立てて固まった。
私は壊れない。崩れ落ちたりしない。
私は、戦う。
断りを入れて、私は揺るぎない足取りで裏のオフィスへ向かった。携帯電話を取り出す手は、もう震えていなかった。月影評議会に保護されているもう一人の魂、弁護士の沙織さんの連絡先を探す。
メッセージはシンプルだった。安全な暗号化された回線で送信する。
「沙織さん」私は打ち込んだ。「離縁の儀式の書類をお願いします。『アイテール』のコンセプトアート一式の、知的財産権譲渡契約書に偽装してください。彼は細かい文字など読みません。オメガの『趣味』なんて無価値だと思っていますから」
送信ボタンを押す。その決断は、痛みではなく、嵐の前の恐ろしいほどの静けさと共に、私の骨の髄まで染み渡った。彼は自らの魂を売り渡す署名をしようとしている。そしてそれは、私の魂を粉々に砕いた時と全く同じ、傲慢さをもって行われるだろう。
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