ナンシーはその日一日中、物思いに耽っていた。
彼女は手術の前にジェシーの助手を申し出て、これによりジェシーの虚栄心が大いに満たされることになった。
午後仕事が終わると、自分の気が散漫になっていることに気が付き、 頭をすっきりさせるためにドリスをご飯に誘うことに決めた。
偶然携帯を手に取ったその瞬間、手の中でそれが鳴りだした。
それは知らない番号からの電話だった。
しばらく躊躇したのち、最終的にナンシーは電話に出ることに決めた。
「もしもし?」
「ああ、私の親愛なる、大好きなお姉ちゃん、あなたの電話番号を探すのは本当に大変だったわ! 戻ってからずいぶん経つのに、電話すらしなかったわね。 私のことは恋しくなくても、きっとお父さんのことは恋しいんじゃない? 知ってると思うけど、お父さんは何日か前に脳卒中になったの。 今はもうきちんと話すこともできないわ。 もしあなたが彼に会いに来ないでそのうちに死んじゃっても、私が黙ってたなんて言わないでね!」 ファニーはナンシーの声が電話の向こうから聞こえた途端に矢継ぎ早にそう言った。 それはあざけりと皮肉の電話だったのだ。
ナンシーはファニーの言葉の選び方に強く不快感を覚えた。
しかし何も聞かずに黙っていた。 その家族が自分にもたらした痛みは、まるで昨日起こったことのようにいまだにはっきりと感じられ、 そんな家族の元に戻る気持ちの準備はまだできていないと感じたのだ。
「最愛なるお姉ちゃん、キャスパーとの間に起こったことでいまだにあなたが私のことを憎んでいるのはわかってる。 でも私たちはお互いを愛しあってるの。 今は子供だっているのよ。 妹に幸せな人生を送ってほしいと思ってるでしょ?」 ファニーは同じ口調でそう言った。 「もし私のことを妹だと思ってるのなら、少なくとも私の幸せを祈るべきよ」、彼女は言い続けた。
「クズ女とクズ男って完璧な組み合わせよね! でももちろん、あなたたちが自分たちがやったことに幸福を感じられることを願ってるわ!」、 ナンシーは悪意を込めて忍び笑いながら言った。
「もうお姉ちゃん、なんて残酷なの!」 、ファニーはそう言った。 「でもそれは本当に問題じゃないのよ、お姉ちゃん。 それで幸せになるなら、私に怒鳴っても、殴ってくれてもいい。 私はあなたからの屈辱に甘んじるわ。でも私に対する憎しみのせいでお父さんを罰するのはやめて。 彼が生きているうちにあなたが彼の元を訪ねてくれることを願ってる。 最後にあなたに会わないまま彼に死んでほしくないの…」
ファニーがすべて言い終える前にナンシーは電話を切った。
その会話のせいで、体の内側では再び怒りが煮えたぎったが、全身が冷えるように感じた。 まるで氷の洞窟にいるようで、 溶解した怒りが血管を駆け巡り、凍った無関心さが肉を弱らせた。
運命のいたずらといえば、その運命は冗談が行き過ぎているように感じた。
私には娘がいるが、彼女がどこにいるのか見当もつかない。
父親、とても憎んでいた父親が突然もう一度自分に会いたがっているという。
でも、自分が母親の医療費すら払えないという時に彼はどこにいたというのだ?
ナンシーは暗闇に身を隠し、ただ時計が針を刻む孤独な音を聞いていた。
そのカチカチという音はまるで彼女の孤独と無力な魂のように感じられた。
それから心が幼少期の思い出でいっぱいになった。 ナンシーがまだ小さかったころにさかのぼる。 1人の子供がいつも必要とするような全てのもの、 ママ、パパ、幸せと喜びが彼女にはあった。
しばらくの間声を上げて笑い、そして大声で泣き始めた。 両手で顔を覆い、全身が激しいすすり泣きとともに痙攣しているようだった。
しばらく経って立ち上がり、ドアに向かうと、 そのドアを開いてからほんの少し立ち止まるとようやく足を踏み出した。
ナンシーは一番に通りかかったタクシーを拾うと、 乗っている間、魂のない操り人形のようにタクシーの中で座っていた。
目的地に着いたと知らせる運転手の声によって上の空だった意識が戻った。
機械的に運転手に運賃を支払うと、すぐさま車を降りた。 晩夏の夜のそよ風は彼女の滑らかな肌には肌寒かった。
気付いたら彼女はあるヴィラの前にいた。 それはなじみがあるようで、同時になじみのない建物だった。 まるで鉛で満たされたかのように自分の足を動かすことができず、 それをぼんやりと見つめていた。
「お姉ちゃん! 戻ってくるってわかってたわ! みんなで待っていたのよ!」
赤い門が開くと、ファニーが絹のチャイナドレスを着て出てきた。
「私は… … パパに会いに来たの」
最後に「パパ」という言葉を使ってからとても長い時間が経っていたせいでなんだか違和感を感じ、 今まで一度も使ったことのない馴染みのない言葉のように感じられたのだ。
「わかってる。 お父さんは居間であなたを待ってるわ」、ファニーは重々しくそう言った。 ナンシーの言葉に一瞬びっくりしたもののすぐに気を取り直し、 彼女を通すためにそっと脇に退いた。
ナンシーは中庭を通り抜ける間、そこにあるものは何も見たくなかったので、 下を向いてすぐに居間に足を運んだ。
居間に入ると笑い声が響いた。
クラーク、彼女の父親は微笑む継母の横で車椅子に腰かけており、 その継母はその魅惑的な笑みにふさわしい豪華なドレスを身に着けていた。
少なくともナンシーの目には、クラークは死にゆく男のようには見えなかった。
彼女は再びファニーによってからかわれ、だまされたのだと感じた。
「ナンシーが来たわ! ほらこっちにいらっしゃい!」 、この時ジル・ワンはナンシーに無関心ではなかった。 彼女は滅多にナンシーに微笑みかけなかったので、これはその滅多にない機会のうちの一つになった。
しかしナンシーは彼女を無視してクラークの元にまっすぐ向かった。
発声を邪魔するようなしこりがのどに詰まっているように感じ、「パパ」と言葉を発する前に声を出さずに練習しなければいけなかった。 「パパ、あなたが私に会いたがっていると聞いたんだけど?」 それ以外の誰でもなく父親の存在だけを認めながら、ナンシーは彼をまっすぐ見てなにげなくたずねた。
「ああ、そうだ … そのとおりだ。 ああ、もう何年もお前に会っていない。 私がどれだけお前を恋しく思っていたかわからないだろう」 父親ははっきりとは話さなかったが、ナンシーは彼の顔に浮かんだ表情から感情を読み取ることができた。
しかしジル・ワンが彼にウィンクをし続けており、ナンシーはそれが目の端で見えていた。
「まあ、本当かしら? お年寄りが昔のことを恋しく思うのは自然なことだものね。 でも私が知るお父さんは、私のことなんて絶対に恋しく思ったりしなかった」、ナンシーはきっぱりとそう言った。 彼らがナンシーに何を望んでいるのかはさっぱりだったが、彼女の直感がどうせろくでもないことだろうと訴えてきた。
「けっ!」、 クラークは少し気まずく感じた。 「お前を呼んだ理由は、お前の母親の株だ。 会社が統合された今、拡大するためにさらなる資金が必要になった」
「わかってたわ! 彼がこんなに簡単にたくらみを認めるとは!」 、内心こう思った。 彼は彼女の母親によって占められている株のためだけに、彼女にそこに来てほしかったのだ。
ナンシーは冷たく笑って首を横に振った。 「パパ、会社は何年もの間連続で利益を上げているでしょ。 今まで私の母に配当金を渡すことを思いついたことがあった? 私はあなたに、その株が私の母の物であるということを思い出させなければいけないわ。 そして彼女に今意識がなかったとしても、私は彼女の代わりに決断を下さないことを選択する。 だから、彼女の株ことに関しては、ただ忘れたほうがいいわ」
「ナンシー、そんなに頑固にならないで。 あなたがここ数年の間ずっと不当に扱われていると感じて、私たちのことを恨んでいるのはわかっているわ。 全部私のせいよ。でもそれは会社とは関係のないことでしょう。 あなたのお母さんのために私たちがどれだけお金を費やしたのかわかっているでしょう? 会社のさらなる発展のためにもっと資金が必要なのよ。 そしてこの家の娘として、私たちに歯向かうべきじゃないわ!」
ジル・ワンはそう言った。 この女は本当に口がうまいのだ!
「私の母の手術の時、あなたは何もしないほうを選んだんじゃなかったかしら?」 、ナンシーは歯を食いしばってそう言った。 あの日の記憶が脳裏に浮かぶと、彼女の怒りが爆発した。
「お姉ちゃん、そんなことは言わないで。 あの時は金融危機のせいで会社は倒産寸前だったの。 会社を失いかけていたのよ。 どうして私たちにあなたの母親の手術のためのお金が出せたっていうのよ?」
「ああ、そうなの?」 、見下すような口調でたずね、 悪意を込めてほほ笑んだ。 「ごめんなさいね。 言ったように、母の代わりに決断を下すことは拒否します。 株に関して、私から手に入れようなんてことは忘れることね」
そう言い放つと、彼女は振り返り立ち去ろうとした。 「どうでもいいことに浪費するお金はあったくせに、私の母の手術代を支払うお金はなかったとでも?
よくもそんなことが言えたものだ!」 、そう内心思った。
「ナンシー、そう頑固にならないで。 キャスパーを奪ったことであなたが私を憎んでいるのはわかってる。 ええ、私が悪かったと認めるわ。 でも、私たちは愛し合っているの! あなたは私たちの幸せを祈るべきよ!」 ファニーはそう言ったが、自分に対して目を回すナンシーの嘲るような表情が返ってきた。 ファニーは眉を吊り上げて最後にこう言った。「あなたの母親の株11パーセントすべてを買うわ。 いくらで売りたいの?」
しかしナンシーは彼らが愛し合っているかどうかには興味がなかった。
手遅れになる前に、キャスパーがどんな人間だったのか見られて喜んでいたのだ。
しかし母親の株に関しては、彼女は喜んで命を懸けてそれを守るつもりだった。 やはりそれは母親の物なので、 絶対にそれを使いも売りもしない。
「わかった、まずあなたの所有するすべてのお金を私にくれたら売ってあげるわ!」 ナンシーは彼らが人間としてどれだけ最低な人たちなのかよく知っていた。 彼らはこの世界で何よりもお金を大切にしていたのだ。
「ナンシー、それはやり過ぎよ!」 、ファニーは手を空中に投げ出しながら叫んだ。
「私は何が欲しいのか言ったし、したいことは何でもするの。 さあ、あなたに何ができるの?」 ナンシーは鋭くファニーを睨み付けながらそうたずねた。